空想地図の描き始め〜中村市ができるまで〜

描き始めは7〜8歳の頃

7〜8歳の頃(1992〜1993年)、空想の地図を描き始めます。
迷路を描く子供と似た感覚です。

夢や理想の街…ではなく、現実を追っていました。

地図には道路が簡単に描かれていますが、右上には自治体のマークと市町村の人口が書かれています。
それにしても、人口の多い都市と過疎地のコントラストが激しい・・・

ちょうどこの頃、テレビ番組で過疎地の学校の複式学級の様子を見て、影響されていました。
分校と複式学級を際限したい…その衝動が、右に描かれた学校のレイアウトと、左上に学年ごとの人数が描かれています。

色が増えましたが、こちらは地図というよりバス路線図です。
こちらも地域によって人口の差が極端ですが、都市部と農村部の差を描きたかったのでしょう。上には東京都の旧都章に酷似したマークが登場、等高線やバス時刻表も思いつきのまま描き足されています。。

こちらは、よりバスの多いバス路線図です。ターミナル駅から山間部へ多数の路線が伸びる様子を描きたかったのでしょう。今はもう慣れたものの、地図を描くと、一気に大量の架空地名を必要とします。当時は慣れなかったので、このバス路線図を見ると「河部」「阿部」「何部」と偏だけ変えたり、「立ノ下」「大ノ下」、「名土」「名戸」等、近い字や読み連続させる等、地名の量産に苦心していることが分かります。

こちらは等高線を使って山を表現し、埋立地の地形と石油タンクを描くことで工業地帯を表現したかったのでしょう。筆がおぼつかないながら、それぞれの風景を地図という表現方法で再現しようと試みていたのが読み取れます。

学校で習わない漢字でも、(実在の)地図や路線図で漢字の地名を見慣れていたため、地名に使われそうな漢字は自然と覚えていったのでしょう。この頃から中学校にかけて、地図を描くトライアンドエラーが繰り返され、「中村市(なごむるし)」以外の地図も、多数描かれました。

中村市地図 第1訂(1997/小5)

 

1997年…小学校5年生の頃、転入生の「中村くん」を空想地図に巻き込んだところ、互いに描くようになり、空想地図熱は増しました。他の都市も描きましたが、現在に続く「中村市」は特に何度も描かれました。その事始めが、この地図です。市街地から農地地へのコントラストを、早まってB4の紙1枚の範囲に収めた結果、中心市街地から1km足らずで農地が現れ、小さな地方都市の規模になります。大規模な郊外の団地(集合住宅中心のニュータウン)を描きたかったものの、B4の紙1枚の範囲に収めた結果、中心駅の中村駅から200〜300mの距離に置かれます。しかしこうした郊外の団地は、高度成長期まで更地(農地)だった所でないと立地しません。40年前にここまで中心駅から近いところが更地だったとすると、想定以上に小さな都市になってしまいました。

地下鉄を1路線を入れましたが、これほどの都市規模では成り立ちません。高速道路も描かれますが、これはあるとしてももっと郊外にあるはずです。長距離の高速道路と都市高速道路の差を気にかけることもなく、試行錯誤した結果、両者が混ざった様相となっています。もう1点大きな欠陥がありますが、それは小中学校がほとんどないことです。  南北を結ぶ鉄道(中村駅〜出駅[現在の出ノ町駅])は私が、東西を結ぶ鉄道(新中村駅〜中村駅〜東中村)は友人(中村市の名の元となった中村くん)が考えます。この共同考案の鉄道網は、位置と距離を変えながら現在も継承されています。また、この頃は中村駅のすぐ東側に中心市街地がありますが、この後、中村駅と市街地の距離は離れていきます。  余談ですが、「中村市」を設定した際、中村くんが「中村の読み方だけは変えてくれ」と言うので、苦し紛れに読みは「なごむるし」となりました。

中村市地図 第2訂(1997年/小6)

 

第1訂の欠点を改良しようと、また白紙から描き始めます。新たに書き加えたものは、学校やバス路線(地図中の細い赤線)です。小中学校の数は改善されましたが、学校名は不明のまま。また、大学も描かれます。図の右上は、広い河川敷を持つ川を繊細に描きたくて描いた「日根川」ですが、現在も継承されています。(現在はかなり東のほうに移動したため、現在の地図では北東隅に僅かに描かれるのみです)

市街地に高速道路を入れることはやめましたが、そのかわり小さな有料道路が描かれます。中村駅付近の市街地は少し拡がり、第1訂より少し賑わいが増しました。しかし前回同様、市街地近くの北東部を農地にしてしまい、郊外団地の距離もそこまで離れていません。市の端まで描こうとして、前回より描かれる面積は拡がりました。地図中に市境が登場し、現在も継承されている東隣の「日根市」も描かれます。しかし描いてみると中村市の市域は非常に狭く、地下鉄が走る都市の規模(人口100万人以上)には到底追いつくことなく、限界を迎えることになります。

中村市地図 第5訂(1998年/中1)

 

地下鉄があるような都市の規模に合わせ、中村市は政令指定都市として、ようやく区を設定します。市域が広い前提で描かれるので、市外(市境)が描かれなくなります。中村駅と、中心市街地(平川)の距離を離しましたが、約3km離したのは無謀でした。鉄道開通前から中心市街地から半径3kmは市街地が広がっていたという、京都や名古屋程の大都市を想起させますが、そこまでの大都市を描く力は当時はありません。しかし鉄道インフラだけは無駄に増え過ぎて、地下鉄は5路線にになります。

それでいて、中村駅の近くに山に囲まれた湖(猪寅湖)を、出ノ町駅の西には基地跡地等、かなり郊外にありそうなものを描いています。描いたことがないので描いてみたかったという衝動と、それを置いてみたらどうなるかという興味本位が混ざっていました。楽しんではみたものの、やはり当時はこの混沌を現実的に落とし込む力はありませんでした。  出駅は出ノ町駅になり、中村駅、平川、出ノ町の三角形は、その距離を変えながら、現在まで継承されています。

中村市地図 第8訂(2003年/高2)

 

これが現在の中村市地図の下図となった最後の手描き地図です。第1〜7訂版は中学時代(1998〜2001年)に進められましたが、それから時間を置いて、高校に1年から3年にかけて(2001〜2004年)描かれたのは、これに絞られます。既に熱は冷めていましたが、途中でやめることはなく、模造紙いっぱいに描くことを続けます。熱が冷めていたからこそ現実路線への消化が行われ、地下鉄も2路線に絞り、中村駅、平川駅、出ノ町駅間の距離も縮まっています。

中学時代の反省は、最初からペンで着色したため修正がしにくい、ということでした。そこで、最後に形が固まるまで鉛筆・モノクロで描き、下書きに徹する形がとられます。結局この形でほぼまとまり、日根川や詰久駅が大きく東に移動する以外、大まかな位置関係は現在のものに継承されています。しかし建物の形や細かい街路はまだまだ粗雑で、これについては2010年以降に全面修正されます。