リアリティをただ追いかけたい
空想地図とは、好きなようにゼロから自由に描けるため、理想の街を描いていると思われやすいですが、実際はそうでもありません。過去に理想の追求をしたこともありますが、その追求は早々に終わります。盛り込みたいものを盛り込むことは、空想地図では簡単で「自分が何を望むか」が視覚化されるに過ぎません。「理想と現実」は対照的な言葉として使われますが、現実のほうが簡単そうで、じつは簡単に追いきれないものです。現実は一つではなく、所によって異なり、一つの場所でも何人もの人がいて、多様な経緯、利害関係と理想が渦巻いています。現実はなかなかに複雑ですが、うまくいかない日常のせめぎあいこそ、 興味深く、愛おしいのです。
あらゆる他者の理解から、都市の生態系の理解へ
自分自身とて、一様とも限らず、あらゆる機会や偶然によって変化します。生まれる場所、進学や就職で引っ越す場所・・・選べない選択肢もあれば選べる選択肢もあります。今とは異なる自分自身を空想する想像力は、同時に他者への想像力にもつながり、異なる他者の群像が浮かべば、社会を想像することにもなります。空想地図作りで実際にやっているのは、「あらゆる他者になりきる」ことです。
たとえば大都市部のリアリティは、木造密集建築は撲滅し高層ビル化する正義と、木造密集こそ風情とする正義とがせめぎあってできているとすると、どちらかの正義に加担せず、どちらの正義も咀嚼することでリアリティが見えてきます。他にも、必ず土地の値段が上がって喜ぶ人と、下がって喜ぶ人といます。こう考えると「誰もに利がある状態」はいかに難しいかが分かりますが、どちらかの正義に加担すると、もう片方の正義が見えなくなります。誰にも肩入れしないが、誰も無視しない…水平な視点を持とうとするところは、地図が持つ俯瞰の視点と通じます。
究極を言えば、自分が共感できない、接点のない人々の日常を想像すること…この繰り返しが、多様な人々のリアリティをつかみ、都市をつかみ、社会をつかむこと、と考えています。
創造主でも市長でもない、ただの調査員として
空想地図に似たものとして、都市シミュレーションゲームであるシムシティやA列車で行こう!が有名です。シムシティは市長になって市を動かし、A列車で行こう!は沿線開発をしつつ鉄道会社を経営するものです。空想地図の描き手はこうした市長か、あるいは神か…と想像する人もいますが、ただ空想の土地の測量をする測量人、調査員に過ぎません。
市長になって好きなようにできるのは、ゲームだからです。現実世界で市長をやるのは大変で、あらゆる利害の中、ビジョンを示して先導していく胆力が求められます。そう考えると私自身、現実世界の市長はとても務まりません(やりたくありません)。神…なんてもっと大変でしょう(よくわかりませんが)。ではどうしていたいか、考えてみました。権力も利害関係のない、誰からも拘束されない状態が最も気楽で自由です。その立ち位置で、世のあらゆるセクターを観察し、好奇心を満たしていきたい…そう考えると、ただの空想測量人、調査員でいるのが最も楽な状態と言えるでしょう。
なにより、現実世界で特に大きな成功をおさめる訳でもなく、淡々と生きる庶民をやっている私が、権力を持ったり成功したりする空想世界はファンタジーというか…なんか現実味がありません。なにより現実味のない空想、ファンタジーやロマンチシズムに浸れる感性を私は全く持っていません(現実逃避するには、非現実ではなくより良い現実に逃避したいだけ)。そんなリアリストの私が浸れる空想世界は、私がそこまで大活躍しない、庶民のままでいられる程度の、現実的な空想世界です。
空想地図上のあらゆることは、私が起こしたのではなく「きっと起こっているであろうことを私が読み取っている」に過ぎません。ここまで言っても「神の意志を授けられ、人に伝える預言者だ」と言われたりするのですが・・・そんなたいそうな。
地理人は中村市民なのか?
私はどこに住んでいるのか、聞かれることがありますが、特に定めていません。市内の各地を描く際には、そこの住民になりきったり、その地に私が住んで居心地の良い姿や悪い姿を想像します。ここもまた、あらゆる他者になりきるか、あるいは自分をその土地を測るバロメーターにしています。今の私自身どこが合うか、住めるならどこに住むかと言われれば、平川駅の北あたりか、琴橋区の松宮あたりか…だと思います。でも状況によっても変わってくるでしょう。皆さんも、いろんな状況を空想しながら、ちょうど良いところを見つけてみて下さい。